「さて、そろそろ帰るか。」

30分くらいはぼーっとしていただろう。そろそろ戻らないと日が暮れる。
一つ息を吐いて立ち上がると、何とも言えない表情をしている彼女と目が合う。
杞憂だとか奇妙だとか嬉しいだとかそんな一緒になるはずのない表情を鍋にぶち込んで混ぜたみたいな顔。

「なん?」

この状況下にそんな表情の理由が全く判らない。
首をひねると、彼女はおずおずと口を開く。

「変な仁王。そりゃ、して欲しくなんか無いけど…
 今回は、追及してこないんだね。」


言われて柄にも無くハッとした。
釣れないコイツを振り向かせる為に喋っていた気がする。
―気なんてものでは無い。
現にたった数十分前には思ってたんだ。
コイツを笑わせる為なら真田のネタだって構わない、と。

慌てた。


「せっかく、言わんでやったんに。
 そやの。じゃったら…唇にでも、聞いてみるか?」
「え…?」

頭と腰に腕を巻き付けて、グッと引き寄せる。
唇に触れると柔らかくて、舌を絡めると苦しそうに暴れた。
ぐいぐいと押し返す力は他の女よりは強いが、それでも離してなんかやらない。
きつくきつく抱きしめて絡めとって飲み込んで。
自分でも恐ろしい位集中して、突然、今まで支えられてたはずの足場を失う。
ボシャンと音がして、冷たさが全身に伝わってくる。
コイツから離れて、ようやく自分たちが湖に落下したのを理解した。



「つめたい…」
「意外に冷静やの。」

それは俺もか、と内心ツッコミを入れながらよっこいしょと湖の岸に登ると、手を伸ばして引き上げた。
岸に乗り上げるとバッと手を払って、くるっと後ろを向く彼女。
耳まで赤い。
だからと言って、これは決して喜んでいる訳ではないだろう。


「悪い。アレは…やりすぎた。」
「アレはって何!いつもでしょ!?」

かける言葉が見つからず、普段の俺ならありえん随分弱々しい語尾。
彼女はキッと睨んで

「仁王は慣れてるかもしれないけど、普通の女の子にソレするのは、最低よ。」

と吐き捨てた。

「…すまん。」


さいてい
って言葉がやけに頭に響く。
言われ慣れてるはずなのに、何故か今はやけに重苦しく感じて、へこまされる。

確かに俺は最低だ。





「いいよ、判った。無かった事にしてあげる。」

こんな状況じゃ女の子にムラムラするのも判らんでも無い。
なんて、彼女は失笑して服の裾を絞る。

言葉の意味を理解するのに時間を要した。
許す、のか?
ペットボトルを拾い、本当に無かったように振る舞う彼女に聞き返すことなんて出来なくて、ただただ彼女の言葉を反芻する。


「どうしたの。行くよ?」

急かした態度は、決して本心から許して居ない事くらいはっきり判る。
だけど、許すと言うのだ。



「…すけとる」

言いながら、学習能力が無いなと思った。
言葉に欠いてこれか。頭悪いな、俺。

「濡れてるしね…重い。」
「また襲っちまうから、コレ着とけ。」
「はぁっ!?」

脱いでいたジャージを投げて寄越すと、気にしていないそぶりを見せていた彼女も俺の言葉に顔を赤くして、とっさに唇を手で隠した。

「お、このテも弱いんか。弱点が多いと助かるのぅ。」

その動揺っぷりに思わず笑みがこぼれる。
少しは余裕が戻ってきた…か?

だけど今、自分が考えている事は明らかにこいつの隠し事なんかじゃ無くて、それに気付いた時また余裕なんか消えた。

「まぁ、これで真相までたどり着ける手駒が揃ったって訳よ。」

そう言って笑って見せたが、それは寧ろ自分にフォローを入れるかのように虚しく響いた。

だけど彼女はそれを聞くとハッとして、俯いて。

「何も、無いよ」

そう呟いて、スタスタと歩き始めた。



帰り道、何の話をしても彼女はもう何も言わなかった。





070915